太郎さん

岡本太郎さんの著書を久しぶりに読んでいる。

長くなるけれど、「自分の中に毒を持て」の最後の章から

引用する。

ぼくがここで問題にしたいのは、人類全体が残るか滅びるかという

漠とした遠い想定よりも、いま現時点で、人間の一人ひとりはいったい

本当に生きているだろうかということだ。

本当に生きがいをもって、瞬間瞬間に自分をひらいて生きているか

どうか。

システムのベルトコンベアーに乗せられ、己を失って、ただ惰性的に

生活をつづけているというのなら、本質的に生きているとはいえない。

ならば、人類滅亡論をいうことも意味がないじゃないか。一人ひとりが強烈

な生きがいにみちあふれ、輝いて生きない限り。

たしかに今日の小市民生活は物質的には恵まれている。暮しは昔に比べてはるか

に楽になってはいるが、そのために生命の緊張感を失い、逆に空しくなっている。

進歩だとか福祉だとかいって、だれもがその状況に甘えてしまっている。

システムの中で、安全に生活することばかり考え、危険に体当たりして生きがい

を貫こうとすることは稀である。

自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。

己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生きぬかなければならない。

今日の、すべてが虚無化したこの時点でこそ、かつての時代よりも一段と強烈

に挑むべきだ。

強烈に生きることは常に死を前提にしている。死という最もきびしい運命と直面

して、はじめていのちが奮い立つのだ。死はただ生理的な終焉ではなく、日常生活

の中に瞬間瞬間にたちあらわれるものだ。この世の中で自分を純粋に貫こうとした

ら、生きがいに賭けようとすれば、必ず絶望的な危険をともなう。

そのとき「死」が現前するのだ。惰性的にすごせば死の危機感は遠ざかる。

しかし空しい。死を畏れて引っ込んでしまっては、生きがいはなくなる。

今日はほとんどの人が、その純粋な生と死の問題を回避してしまっている。

だから虚脱状態になっているのだ。

個人財産、利害得失だけにこだわり、またひたすらにマイホームの無事安全を

願う、現代人のケチくささ。卑しい。小市民根性を見るにつけ、こんな群れの延長

である人類の運命などどいうものは、逆に蹴とばしてやりたくなる。

人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。それが誇りだ。

死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストを尽くすことだ。現在

に、強烈にひらくべきだ。未練がましくある必要はないのだ。

一人ひとり、になう運命が栄光に輝くことも、また惨めであることも、ともに

巨大なドラマとして終わるのだ。人類全体の運命もそれと同じようにいつかは

消える。それでよいのだ。無目的にふくらみ、輝いて、最後に爆発する。

平然と人類がこの世から去るとしたら、それがぼくには栄光だと思える。

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